<日本画ミニ解説>
 
速水御舟 「小春」第1回 速水御舟 《小 春》 はやみぎょしゅう 《こはる》 1910年(明治43

 
秋草を背に藤原時代風の童子が、ほつれた桧扇を手に大きすぎる浅沓を履き、独りたたずむ姿は無邪気さを表すかのようである。歴史人物画の大家である松本楓湖の画塾での古典模写などによる修習の跡が窺い知れるとともに、背景の藤袴などの秋草の描き方からは、写生によって得られた自然に即した軟らかな表現が見られる。

 この「小春」は、速水御舟(1894〜1935年)が16歳になる年(明治43)の3月、最初に用いた「禾湖」の号で、第10回巽画会展に初出品し入選を果たした記念すべき作品であり、御舟自身も「私の最初の画歴となるものである」と後に回想している。
 この作品からは御舟自信の初々しさが投影されているようで以後、常に革新的な試みを続け、「炎舞」「名樹散椿」(いずれも重要文化財)など数多くの名作を世に送り出したが、その早すぎる死はあまりに惜しまれる。

第2回 下村観山 《蜆 子》 しもむらかんざん 《けんす》 1921年(大正10)頃 

下村観山 「蜆子」
 
下村観山(1873−1930年)は和歌山市の生まれで幼くして狩野芳崖に入門、のち橋本雅邦に師事し東京美術学校の開校と同時に入学。同級に横山大観、西郷孤月らがいた。卒業後、同校の助教授となるが、岡倉天心の辞職に伴い大観や菱田春草らとともに日本美術院の創立に参加しのちに教授に復職。卓越した技法と東洋画への深い洞察から、穏健な画風による数々の名品を残した。
 画題となる蜆子和尚は中国唐末〜五代頃の禅僧で、年中1枚の衲衣(のうえ)をまとい、俗に交わり蝦(えび)や蜆(しじみ)を捕って食したといわれ、片手に蝦を掲げ、他方の手にたも網を持つ姿は禅宗絵画の好画題としてしばしば描かれている。

 ほとんど墨の濃淡だけの表現にも関わらず水や土の質感、竹のしなりや葉の勢い、また和尚の表情など見所も多い。同様の画は縦画面で描かれることが多いが、横幅にして奥行きを広げ、風のそよぎや水流などの自然描写により従来の禅画にとどまらない新たな感覚が見られる。

第3回 川合玉堂 《嶋之春》 かわいぎょくどう 《しまのはる》 1937年(昭和12年)

川合玉堂 「嶋之春」
 
川合玉堂(1873−1957年)は愛知県に生まれ、のち岐阜市に移り幼少を過ごした。京都に出て望月玉泉、ついで幸野楳嶺に入門し円山四条派を学ぶ。師・楳嶺の死去により上京し、橋本雅邦に師事する。円山四条派の品格と狩野派の力強い線描を融合し、墨と色彩を調和した自然豊かな日本の風景を数多く描いた。1940年(昭和15年)文化勲章受章。

 漁村と思われる集落には春の訪れを告げる桃の花が咲き、田畑も緑に染まっている。画面中央の鳥居の奥に広がる鎮守の森は木々がうっそうと茂り、海と空が溶け込むような上空には陰影を施された雲が浮かんでいる。こののどかで穏やかな風景はどこを描いたのか定かではないが、玉堂は自然の風景を写生し膨大なスケッチを積み重ねた結果、目を伏せるとあらゆる風景が浮かんだようであった。したがってこの作品も自然の実景を基にしながら、自在に組み立てたイメージによって構築された風景とも考えられ、点景として描かれた海辺で暮らす人々にまで暖かなまなざしが向けられているようである。

第4回 上村松園 《春風》 うえむらしょうえん 《しゅんぷう》 1940年(昭和15)頃上村松園 「春風」

 京都の葉茶屋の家に生まれた上村松園(1875−1949)は女手ひとつで母親に育てられ、女性が絵画の制作で生きていくことが困難であった時代に、母の理解と自身の懸命な努力により多くの名作を残した。その功績を認められ、1948年(昭和23年)に女性初の文化勲章を受章した。

 この女性の髪形は島田髷(しまだまげ)で、後方へ鳥の尾羽のように跳ね上がる髱(たぼ)は鶺鴒髱(せきれいたぼ)と呼ばれ江戸中期に流行した。髪飾りには白べっ甲の揃いの笄(こうがい)と櫛に、金と朱のはね元結をかけている。また浅黄色地で浜松模様に紋付きの振袖は若い娘の正装した姿で、和傘を手にして飛ぶ蝶を目で追っている。
 晩年に描かれた若い女性像は、切れ長の目で表情が類型化された観があるが、いずれも清明さと品格を備えている。

第5回 菱田春草 《暁霧》 ひしだしゅんそう 《ぎょうむ》 1902年(明治35)頃

 
長野県 飯田に生まれた菱田春草(1874−1911)は、東京美術学校第二期生として卒業。その才能を岡倉天心に認められ同校の講師となるが、校長であった天心の罷免に伴い辞職し日本美術院の創立に参加した。横山大観らと伝統的な線描を廃した画風を研究し、のち自然主義と装飾性を調和した「落葉」などの名作を残したが、三十六歳で早世した。

 画面には中国の水墨画を思わせる連山の奥から太陽が昇り始め、朝もやに水辺の湿潤な大気が溶け込む様子が描かかれる。明治三十年代半ばに、大観、下村観山らと共通の課題として取り組んだ輪郭線に頼らない描法は、朦朧体(もうろうたい)と嘲笑されたが、この作品もこの時期の作と考えられる。日本画に印象派の光と空間を取り入れようとして線を排除した試みは春草に始まるといわれ、本作のような情景には極めて効果的な描法となっている。

 第6回 橋本関雪 《月下狸之図》 はしもとかんせつ 《げっかたぬきのず》 1935(昭和10)年頃
 

 
橋本関雪(1883−1945)は神戸に生まれ、明石藩の漢学者の父の影響で幼少より中国の古典を学ぶ一方、四条派の片岡公曠に入門し、十代初め頃から関雪の号を用いる。家運が傾き一時期放浪生活を送るが、1903(明治36)年の冬に竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に入塾し、官展で画才を認められ活躍する。のち画塾を脱会し画壇から離れ独自の道を歩んだ。中国の古典文学や故事などに基づく作品を数多く描いたが、やがて動物画へと移行し数々の名品を制作した。 

 初秋の月明かりの夜、一匹の狸が川面をじっと見つめている。水面に映る自らの姿か、それとも獲物となる魚でも見つけたのか前足を軽く曲げて今にも跳びかかろうとしている。詩情漂う動物画とは異なり、闇夜に浮かぶ狸の動作から画面に緊張感が充満し、風にそよぐ萩の枝先のかすかな音以外は聞こえそうになく、静けさに包まれる。画才を認められ優れた実績を残した関雪だが、酒豪かつ無愛想で破天荒な行動でも知られ、警戒するような狸の姿やまなざしは、栖鳳との衝突によって京都画壇から孤立した関雪の心情を垣間見るようである。

7回 徳岡神泉《西 瓜 》とくおかしんせん《すいか》 1940(昭和15)年頃

 徳岡神泉(1896−1972)は京都に生まれる。1909(明治42)年、竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入塾。翌年京都市立美術工芸学校へ入学し、卒業後はさらに京都市立絵画専門学校に入学した。在学中より文展に出品するも連続して落選、卒業後は妙心寺などの寺に移り住んで参禅したり、富士山麓の富士川町に滞在するなど苦悩の時期を過ごした。京都に戻り1925(大正14)年、第6回帝展に初入選、翌年には特選となり、以後官展を中心に活躍。厳しいリアリズムと濃密な質感表現から、次第に構成の単純化をおしすすめ、戦後は自己の内面を象徴的表出したな画境に到達した。

 戦後の作品は具体性を取り払い、禅の境地を示すかのような作品へと移行していくが、本作でも空間表現にその予兆がうかがえる。神泉は「目に見えない、もっと深いもの、言葉で言い表せない大自然−宇宙−その摂理を絵の世界で追究してゆきたいと思っている」という言葉を残しており、静寂な無限の空間に広がるどこか神秘的な雰囲気は、西瓜畑という具体的な場所から離れ、画家の深い精神性に基づく象徴的な空間となって広がっている。
 


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